前回のブログ記事で「譲り受けたきもの」を「いただきもの」と呼ぶことに決定! と意気揚々と描いておりましたが、その日の夜、夢で「頂着物」と書かないとわからないよ、という啓示がありました。
確かにそうだ!!!
これからは「頂着物」と書いて「いただきもの」と読みます。
和美さんちの箪笥の「アバンギャルド頂着物シリーズ」の羽織です。こちらの羽織も「畳んであるときはアバンギャルド感半端ないけれど、着てみると意外としっくり馴染む」というアイテムです。
アバンギャルドきものの記事とコーディネートはコチラをご覧くださいね。
夢で「頂着物と書かないとわからないよ?」という啓示を受けるなんて、よっぽど神様は私に「頂着物愛」を語らせたいに違いない! と思った。なぜ、そう思ったのかというと、ブログ記事を書くにあたりあやふやな知識があって、手持ちのきもの本で調べ物をしていたところ「蚕が糸を吐くのを見ているので、絹布を捨てることはできません」という見出しが目に飛び込んできたのです。きもの文化研究科の中谷比佐子さんの「繰り回し」についてのインタビュー記事。もう、何年もこの本を持っているのに、突然、その見出しが出現したかのように目に飛び込んでくるから不思議。
私も、繰り回しをしたい! しかし、裁縫が得意ではない! というか「縫う」ことは得意。でも、持ち前の「空間認識力」の欠如ゆえ、型紙の見本があってもさっぱりわからない。「スーツケースのパッキング技術」はセミナー開催を希望されるほどに得意なのに。型紙が分からない。
注)「繰り回し」とはいわゆるリメイクです。昔の人は、着られなくなったきものを、ほどいて縫い直し、きもの→帯や羽織や長襦袢や着物の裏地など→布団やざぶとんの外側の記事→巾着やお手玉などの小物→はたきの先っぽ といった具合に様々なアイテムに姿を変えて最後まで布の命を全うさせていました。
「頂着物」を繰り回すスキルの一部に欠落がある私は「着付けの工夫でなんとかする」という方向に知恵をめぐらす能力が研ぎ澄まされた。正直なところ、自分寸法で仕立てたきもののほうが、着付けはしやすい。次は仕立て上がりのきものや浴衣。仕立て上がりは「最適解の寸法」なので、大体の人が着られるようになっている。けれど、「頂着物」は「誰かの寸法」に合わせて仕立てられているため、もっとも着るのが難しい。
でも難しいからこそ、それが「頂着物」の醍醐味。
「頂着物」はこれまでずっと「こういうものだ」と思い込んでいた枠の外からやってくる。和美さんちのアバンギャルド頂着物シリーズもそう。自分でイチから反物を選んであつらえるのならば、「無難」を優先してセレクトしないだろうアバンギャルド感。けれど、無難を選ぶことに慣れ、枠から外れることを恐れていたままでは未来永劫、無難なままだから。
巡りめぐって、縁あって知り合った方からの「頂着物」。和美さんがエネルギーを費やして保管し続けてくれた一枚を「着た姿」をお見せしたい。その気持ちが、私の中の「頂着物愛」をくすぐり、今、こうしてブログを綴ることにつながっています。
「お蚕さんに申し訳ない」
前述した中谷さんの言葉にハッとしたのは、私の中で言語化していなかった思いを指摘された気がしたから。そう。そもそものお蚕さん、そしてお蚕さんは桑の葉っぱを食べて……と生き物の営みが連鎖していて、きものとなっていることに私は何か感じるところがあるのだと思う。
きものは、自由に着ればいい。
一周回って、ほんとに心からそう思う。でも、その「自由の境地」に踏み出すまでに、これまた紆余曲折があった。きものを自由に、というわけにはいかなくて「生き方そのもの」が自由であることが必要だから。
そんなお話はまた、別の機会に。
今日も読んでくださって、ありがとうございました♪
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